ワイルドターキーを久しぶりに煽ったが、これほどまでマイルドであったかと驚いた。
ワイルドターキーを初めて飲んだのは、落合信彦氏のエッセイ、あるいは小説の中で知ったからだ。ワイルドターキーを、ショットグラスで、生(き)で飲んで、カーッと頭に血が上る感覚を、落合信彦氏は「神に抱きしめられる感覚」といったニュアンスで書いていたと思う。四十度近いアルコール濃度の酒は、30ミリリットルの、いわゆる「シングルショット」、あるいは、古くは「ワンフィンガー」の分量であるが、ショットグラスに注いだ容量、あるいはグラスに指一本分注いだワイルドターキーは、薄めずに、一気に飲むと、すぐに酔いが回った。
もちろん、アルコール度数の高い飲み物を一気に飲んだ後は、「チェイサー」、追い水という、水を100ミリリットルほど飲んで、胃のなかを落ち着かせ、喉を守るのが鉄則であるが、ワイルドターキーを飲んだ後は、酔いに包まれる感覚が心地よかった。
バーボンという名に分類されるお酒は、(誤解を恐れずにいうと)テネシーウィスキーとも呼ばれ、アメリカのとある田舎町で、燻した樽の中に原酒を入れてエイジング(?)したのが発祥であったと記憶する。私の記憶はフラッシュメモリーであり、すぐに吹き飛んでしまうのだが、時々、些細な五感への刺激や、キーワードにより記憶が復活し、フラッシュのように蘇る。
バーボン、というかアメリカの田舎町で作られた、クセのあるお酒は、その他には、ジャックダニエルが有名であろう。あちらは、テネシーウィスキーと称していたと記憶する。テネシー州は、ケンタッキー州の南部に隣接しており、ウィスキーの作り方は同様に発達したのであろう。アメリカ流のおおらかさ(?)により、ワイン作りのような、隣の畑で採れたブドウは、違う品質のものである、というような厳格な棲み分けがなく、テネシー州のバーボンも、ケンタッキー州のバーボンも、大きくは変わりないと、飲んだ感触としては、そう考える。
ここからは推測であるが、テネシー州とケンタッキー州は、日本における静岡県と山梨県のように(あるいは、皆さんの想像にお任せする対立構造があるように)、何かとライバル心を持っているのであろう。私が両者のバーボンを飲んだ記憶によると、ジャックダニエルは、豊かな川の流域で、夕涼みに飲むオン・ザ・ロックのお酒。ワイルドターキーは、熱い日差しの中、木陰で、ショットで煽る一杯。これほどに性質が違うと思う。
なので私は、かつての記憶を呼び起こすように、ワイルドターキーを生で煽ったものの、キックが感じられず、なんだかまろやかな味わいであった。これは私が老成し、角がとれ、円熟みが増した状態に似ていのではないだろうか。飲みやすいが、エッジが立っていない。なんだか、複雑な気分になった。
このような文章を書いているうちに、私はふと、このウィスキーのラベルに描かれていた、七面鳥の違和感にようやく気づいた。七面鳥がカラーではないことに。私が以前飲んだワイルドターキーは、七面鳥がカラーであった。記憶に基けば、そのワイルドターキーは10何年もののウイスキーであったはず。今飲んでいるターキーは、若鳥だったのか?つまり、まろやかさは、未熟さの現れであったのか。
わたしは、このワイルドターキーをわたしになぞらえ、円熟し角の取れた自分と対比したつもりであったが、実は、未熟さの現れであったと、ふと気がついた。この若いターキーは、わたしに、エッジを尖らせ、キックと強くしろと諭していたのだった。
そんなこんなで、6時間後に迫ったわたしの夜間勤務に備えて、若いターキーを煽り、大切な睡眠に入ろうとする時間、ふと思い立ち、ブログを投稿するのであった。
落合信彦さんの新作を読みたい。落合陽一さんに頼んだら、書いていただけるのであろうか?